恵子の乗った列車は山の中の小駅に停車した。対向列車の待ち合わせのようで、しばらくたっても列車は動 き出す気配がない。夜も更けて乗客のまばらな車内は、しんと静まり返っていた。 恵子はデッキに出てドアを開け、タバコに火をつけた。ホームと反対側はすぐそばを川が流れ、列車の明か りで川面がぼんやりと光っている。恵子はいつかどこかで見た風景だなと思いながら、しばらく薄明かりの水 面を見つめていた。タバコの煙がかすかな風で流れた。 列車はまだ動こうとしない。恵子は2本目のタバコに火をつけた。途中まで吸ったとき、この情景を思い出 した。そう、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の中に、こんな風景の記述があった。どこかで見たと思ったの は、現実の風景ではなかったのだ。 ジョバンニとカンパネルラは、この白鳥停車場で降りたんだった、と恵子の記憶の中に賢治童話の文章が甦 ってきた。二人はぼんやりと光る銀河の水に手を浸したんだっけ、あらすじをたどる恵子の脳裏に、自分の子 供の頃の記憶も思い出されてくる。 小さな町で居酒屋をやっていた恵子は、客足が遠のいた店をたたみ、あてもなく汽車に乗った。この汽車が どこまで行くのか知らないが、夜明けになって停まった駅で降りることにしている。その町でどんな人生が待 っているのかもわからないが、自分一人くらいなんとかなるだろうと思っている。 童話の最後の方で、ジョバンニが「僕、もうあんな大きな闇の中だってこわくない」と言っているのを恵子 は思い出し、かすかに光る暗い川面を見つめた。 そのとき遅れていた急行列車が、轟音と共に駅を通過して行き、しばらくカタンカタンと車輪の音がしてい たが、やがてもとの静けさが戻った。 恵子が3本目のタバコに火をつけたとき、ピーと汽笛が鳴って列車が動き出した。線路のすぐそばを流れて いた川は、次第に線路から離れて闇の中に消えていった。座席に戻った恵子は、カタンカタンという車輪の音 を聞きながら、眠りに落ちていった。 |