学  童  疎  開

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 昭和19年の秋、戦争が激しくなって伊能家では次女の文恵が、学童疎開で滋賀県の安土町へ行った。縁故疎開が出来ない学童は集団疎開をすることになっていたが、国民学校によって扱いがまちまちで、全校生徒が疎開することもあり、学年ごとに疎開する学校もあった。

 文恵たちの国民学校では3年生以上が疎開することになり、5年生の文恵だけが疎開して1年生の久子は一枝とともに親元に残ることになった。夏休みには上級生も下級生も一緒に学校のプールで遊んだのだが、新学期が始まると別れ別れになって学校の中も寂しくなってしまった。

 疎開した文恵が一人で寂しいだろうと、マツや一枝は時々面会日に会いに行った。1年生の久子は一度だけ母に連れられて姉に会いに行った記憶がある。疎開先は会社の寮のようなところで、面会日には2階の大部屋に疎開学童たちが集まり、母親や兄弟姉妹との久しぶりの再会を喜んだ。

 話がはずんでいるうちにおやつの時間になり、疎開学童たちは中央のテーブルに集まっておやつを待っていた。マツは久子に
「下に降りて待っていなさい。」 と言った。
 おやつは疎開学童の分しかないだろうと考えたマツが気を遣ったらしかった。

 久子が下足場のスノコの上でぼんやりと周りの風景を眺めていると、男の先生が通りかかり、久子に名前や学年を聞いて2階へ上って行った。しばらくして降りてきた先生は、手に小さな「ふかし芋」を2つ持って久子に近づいて来た。

「これはね、お姉ちゃんたちが畑で掘ったお芋なんだよ。久子ちゃんもおあがりなさい。」
と言って久子の両手にふかし芋を持たせてくれた。久子はとても嬉しかったが何も言えず、恥ずかしそうに先生に微笑んでいた。

 それからしばらくして降りてきた母にそのおやつの芋を見せて、先生にいただいたことを話した。マツは
「そう、よかったね。お家へ持って帰っておじいちゃんにお供えしてからいただきましょうね。」
と言って、そのふかし芋をチリ紙に包んで布のカバンに入れた。

 久子はもう一度2階へ上って、姉の文恵との別れを惜しみ、マツと2人で長い時間を列車に揺られて大阪へ帰ってきた。その夜、仏壇に供えた小さなお芋を、親子4人で分けて食べた。疎開学童の心のこもったごちそうだった。

 その年の冬のはじめ、疎開していた文恵が扁桃腺炎になり、自宅で療養するために大阪の家へ帰ってきた。もともと体が弱く、疎開前からも時々扁桃腺が腫れて熱を出していた。

 その頃から空襲警報も頻繁に出るようになり、自宅の防空壕は小さかったので、家のすぐ前の国民学校へ逃げて地下室で息をひそめていた。けれどもたいていは爆撃も無く、警報もすぐに解除された。一度だけ近くの天満橋あたりに焼夷弾が落ちてドーンと大きな音が聞こえた時は生きた心地がしなかった。

 そんな中で昭和20年の正月を迎えたが、戦時中で物資も無い状態で、正月を祝うどころではなかった。そしてその年が恐ろしい運命の年になろうとは、一般の人々は知る由もなかった。



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