3 月 大 阪 大 空 襲

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 昭和20年3月13日の深夜、空襲警報のサイレンを聞いた文恵と久子は、暗がりの中で服を着て、母のマツと一緒に家のすぐ前にある国民学校の地下室へ避難した。長女の一枝と父の慶治は青年団や警防団の役員をしていたので、それぞれの持ち場へ走って行った。

 今までは空襲警報が出ても何事もなく、しばらくして警報は解除されるのが常だったが、この夜は違っていた。B29爆撃機の大編隊から焼夷弾が多数落とされ、あちこちで家が燃え上がった。この学校も火がまわってきて危ないということで、少し離れた国民学校へ移動することになった。

 地下室を出たところでマツが
「二人ともここでちょっと待っていなさい。」 と言って、校門のすぐ前の自宅へ入っていった。

 後で考えるとわずかな時間だったが、1年生の久子には母がもう出てこないような不安に襲われて、
「おかあちゃ〜ん、おかあちゃ〜ん!」 と泣きながら家に入ろうとした。

 5年生の文恵はあわてて
「お母ちゃんはすぐ出てくるから待ちなさい!」 と叫んで必死に美代子を引き止めた。しばらくしてマツは仏壇にあった先祖代々の位牌を、大事そうに胸に抱いて飛び出して来た。

 3人は他の人々の後を追って走っていったが、途中で「ババーン、ババーン!」という焼夷弾の炸裂する音が聞こえ、その度に家の軒下に身を隠し、音が少しおさまるとまた小走りに逃げていった。空を見上げると、まるで火の雨が天から降ってくるような感じに襲われた。

 どこかで
「おかあちゃ〜ん、おかあちゃ〜ん、おかあちゃ〜ん!」 と何度も泣き叫ぶ声が聞こえる。

 きっとお母さんとはぐれてしまった子供だろう。それを聞いた母親のマツは
「しっかり手をつないで、絶対に離したらいかんよ!」 と悲鳴にも似た声で叫び、3人は手をつないだまま次の避難場所になっている国民学校の講堂へ飛び込んだ。

 しばらくその講堂で大勢の人と一緒にいたが、ここも危ないと言う声が聞こえ、みんなは京阪電車の天満橋駅(当時は終点)の方へ逃げ、谷町筋から駅へ通じる地下道へ避難した。途中でばらばらになったのか、人数はずいぶん減っていた。

 その後、爆撃も止んだので、薄明の中を警防団の人に引率されて、今度は大阪府庁へぞろぞろと向かった。1階は避難してきた人で一杯で、3階あたりの会議室のようなところへ入っていった。その頃には空襲警報も解除されていた。

 夜が明けて部屋の西側の窓から外を見ると、大阪の街は一面の焼け野原になっており、わずかに焼け残った鉄筋のビルがポツンポツンと建っているだけで、あちこちからまだブスブスと煙が昇っていた。一同は言葉もないまま、その光景を茫然と見つめていた。

 日が昇ってから人々はそれぞれの家に帰り始めた。久子たちは別々に逃げた父の慶治や一枝の安否も気になり、とりあえずは家に帰ることにした。ずっと何も食べていなかったが、不思議と空腹感はなかった。

 自宅はすっかり焼け落ちていて、わずかに石の表札をつけた門柱と、庭の石灯篭だけがすすけた姿で立っているのが、何もない焼け跡での鮮明な記憶として残った。自宅から路地を隔てた西側はかろうじて焼け残っていた。その隣りの家で三人は慶治と一枝に再会し、無事を喜び合った。

 焼け残った隣りの家には、久子と仲良しの2年生の京子ちゃんがいたので、文恵と久子はその夜は京子ちゃんの家で泊めてもらうことになった。

 一方、両親と一枝は午後から身の回りの物を整理して、玉造の親戚へ行くことにした。もちろん市電が走っているはずがなく、3人は焼け跡の道を歩いて行った。

 谷町筋を南へ歩いていったが、このあたりも空襲でほとんど家は焼かれ、繊維問屋の大きな金庫だけがあちこちに残っていた。今日も時折B29爆撃機が上空に現れ、3人はそのたびに焼け残った金庫の陰に隠れた。

 谷町六丁目の交差点を曲がって東雲町を通ると、このあたりは爆撃がひどかったらしく、あちこちの防火用水のそばで何人もの人が死んでいた。黒焦げになった死体も多かった。焼夷弾でからだを焼かれた人が水を求めて防火用水に集まり、そこを爆撃されたり力尽きて死んでいったようだった。

 玉造の親戚の家に着いたのは夕方で、その日は一晩泊めてもらって、翌日に滋賀県の叔父の家を訪ねることにした。



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