家 族 の 別 れ

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 翌3月15日、両親と3人の姉妹が自宅の焼け跡で相談した結果、文恵と久子は滋賀県の叔父の家に疎開させ、慶治とマツと長女の一枝は近くの焼け残ったビルの3階の一部屋を借りて住むことにした。

 一枝が妹2人を滋賀県まで連れて行くことになり、午後に大阪駅から列車を乗り継いで草津線の三雲まで行った。駅に着いた時には最終のバスが出た後だった。

 駅から叔父の家までは1里もあり、子供を連れての夜道は不安で途方にくれていると、3人の様子を見ていた駅長さんが事情を聞いて下さり、車庫へ入る回送のバスに途中まで乗せてもらえることになった。

 田舎の人の厚い人情に接した一枝はホッとすると同時に胸が熱くなった。バスを降りた3人は運転手さんに口々に
「ありがとう。」
と言って、暗い夜道を叔父の家に向かった。

 叔父は大阪への空襲を予想して早くから滋賀県の実家へ疎開していた。一枝たちにも
「早く疎開して来い!」
と言ってくれていたが、なかなか腰が上らずにとうとう空襲を受けてしまった。

 一枝は叔父に会ったら
「ぐずぐずしているから空襲に遭うんだ!」
と叱られることを覚悟していたが、何も言わずに温かく迎えてくれたので嬉しかった。

 父から連絡がいっていたようで、叔父はぜんざいを用意して待ってくれていた。
「寒かったやろ。はやく上ってぜんざいをおあがり。」
と居間へ3人を招き入れた。空腹だった3人はぜんざいの甘さでやっと人心地がつき、その夜はぐっすりと眠れた。

 翌3月16日、一枝は近くの国民学校へ文恵と久子を連れて行き、転校の手続きをしたあと、役場にも寄って色々な手続きを済ませた。大阪とは違って景色のいいのどかなところだった。

 数日後、一枝は妹2人を残して両親の住む大阪へ帰っていった。文恵と久子は親と離れた生活に不安を感じながら
「早く戦争が終わって、家族みんな一緒に大阪で暮らしたい。」
という気持ちで、姉の後ろ姿を見送っていた。



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