一枝が大阪へ帰ってしまうと、文恵と久子の疎開先での生活が始まった。滋賀県でも時々空襲警報が発令されることがあったが、それほど緊迫感はなかった。 大阪のようにB29爆撃機の爆音が聞こえることもなく、校舎や家の中に入って、警報の解除を待つだけだったが、大阪大空襲を経験した二人にとって空襲警報のサイレンは、あの日の怖い思い出が甦る引き金だった。 転校した学校へ通いだした頃、一年生の久子はクラスの男の子たち数人に、学校からの帰り道などで 「やーい、焼け出されこーじき、焼け出されこーじき!」 と、はやし立てられたことが何度かあった。 直接の暴力を受けたことはなかったが、言葉でいじめられることは多かった。その度に久子は 「私は乞食なんかじゃないもん。」 と、心に強く思って泣くことはなかったし、いじめられたことを誰にも言わなかった。 衣類などは配給制で、時々学校でも割り当てがあり、2年生になって間もない頃、紺のもんぺと長袖の上着のセットが2組、久子のクラスに配給があった。担任の女の先生が、 「久子ちゃんは着のみ着のままで大阪からこちらへ来られたので、今度の配給は2組とも譲ってあげたいと思うんだけど。」 と、教室の生徒を見回して言った。 先生の言葉に誰一人不平を言う者もなく、みんな黙って頷いていた。担任の先生は久子に何かと気を遣ってくれ、クラスの女の子たちもみんな親切にしてくれるので、それが久子にとっては大きな心の支えとなった。そのうちに事情がわかってきたのか、久子をいじめていた男の子たちも何も言わなくなった。 一方、大阪へ戻った一枝は両親と一緒に、間借りしているビルの近くの焼け跡で畑を作り、芋などを植えて食料にしていたが、それほどの収穫があるわけではなく、やせ細った芋のツルまでも食べて飢えをしのいでいた。 6月の大阪大空襲では幸い3人とも大阪を離れていたので、焼夷弾の中を逃げまどうことはなかったが、間借りしていたビルは爆撃で破壊されてしまい、父の慶治と一枝は尼崎の親戚の家へ身を寄せ、母のマツは滋賀県の叔父の家へ行くことになった。 叔父の家にやって来たマツは、近所の家の農作業を手伝い、一年生の久子は学校が終わってから隣りや向かいの家の赤ちゃんを預かって、子守りをすることが仕事になった。病気がちの母に代わって洗濯をすることもあった。井戸水で洗濯し、すすぎは家の裏の小川でしていた。きれいに乾いた洗濯物の清々しさが気持ちよかった。 母の具合が悪いときは洗濯などは久子の役目だったが、掃除や食事の支度などを姉の文恵と二人で分担してこなしていた。 そのうちマツは病気がちになった。空襲で逃げるときに胸を打撲したことや、田舎での気遣いの多い生活で心身ともに疲れが溜まっていたようで、肋間神経痛や胃酸過多症で病院通いを繰り返し、時には往診をお願いしたこともあった。 体調のいい時はまた近所の手伝いをしに出かけたが、無理をしていたことは小さい久子にもわかっていた。母の体を蝕んだのが戦争だと思うと、とても腹立たしく悲しかった。 |
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