終 戦 の 日 に

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 文恵と久子の通う国民学校では8月15日の午後に、集団疎開で学校に寄宿している学童たちを、地元学童の有志で慰問する催しがあり、文恵と久子も近所の友達と一緒に学校へ出かけていった。

 学校の2階にある家庭科教室が広い畳敷きになっており、疎開学童たちはそこで寝起きしていたようだ。文恵は前年の秋から冬にかけて集団疎開の経験があったが、今度は疎開学童を迎える立場になっていた。

 文恵たちは校門を入って家庭科教室のある校舎へと歩いていったが、渡り廊下のところで先生2人が小声で話し合っておられるのが目に付いた。疎開学童を引率してきた先生のようだった。不安そうな顔で話しておられたので、久子は子供心にも何かあったのではないかと直感した。

 慰問の会ではお遊戯をしたり、疎開学童と一緒に歌を歌ったりしたようだが、久子はさきほどの先生たちの不安そうな様子が気になって、どんなことをしたのか詳しく覚えていなかった。

 久子たちが終戦を知ったのは翌日のことだった。きのう疎開学童の先生が小声で話していたのは、そのことだったのかとあらためて確信した。

 戦争が終わったからといって、翌日から暮らしが全く変わってしまうこともなく、今までと同じように貧しい日々が続いた。何ヶ月かが過ぎた頃から、村にも復員してくる兵隊さんの姿が見えるようになり、その反面で戦死公報が届く家もあって、悲喜こもごもの生活が繰り返された。

 文恵たち3人が間借りする叔父の家でも、まだ戦地から帰って来ない義兄の重雄と、兄の友治の写真を棚に飾って、毎日「陰膳」を据えて、二人の無事を祈っていた。

 一枝の夫の重雄が復員してきたのは、終戦から8ヶ月後の昭和21年4月。久子たちの兄の友治が復員したのはそれからさらに1年近く後のことだった。



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