3月大阪大空襲(1)

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 23歳の和江は父母といっしょに大阪市東区の糸屋町に住んでいた。4人兄弟の長女で弟が1人と妹が2人いた。夫は外地へ出征しており、弟の重治も軍隊に応召されていた。妹の芳恵は国民学校の5年生で、19年の秋に学童の集団疎開で滋賀県に行っていたが、扁桃腺炎を患って療養のために大阪へ帰って来ていた。国民学校1年生の美代子とで合計5人の所帯だった。

 和江の家は一戸建てで、小学校の正門から道路を隔てたまん前にあり、裏庭には井戸もあった。「家でミシンを踏む父の姿が2階の教室から見える」と妹の芳恵が疎開前に言っていた。自宅の防空壕は庭に小さなものがひとつあるだけで、ひとり入るのがやっとだった。防火用水は各戸ごとに設置されていたようだ。

 昭和20年3月13日のその日、和江はいつもの通り北浜の繊維会社へ出勤し、夕方には家に帰ってきた。昼間は空襲警報もなく平凡な一日が終わった。

 夜遅くから空襲警報が鳴り出したが、特にB29爆撃機の爆音も聞こえなかったので、逃げる用意だけはしてじっとしていた。そのうちに近所から火の手が上り、「逃げろ!」と言う声や人々の逃げる足音が聞こえてきたので、5人はあわてて庭に飛び出した。妹2人と母の3人はすぐ前の中大江東小学校の地下室へ避難したが、和江と父は警防団の仕事を手伝うために家の前に残った。

 火の手はそれほど近くはなかったが、警防団の人が類焼を食い止めるために、和江の家に縄をかけて倒そうとした。けれども一戸建てで頑丈な家はなかなか倒れず、警防団もあきらめて和江の家はそのままにして他の家の消火にあたっていった。

 和江は父に「火が来たらふとんをかぶって家の井戸に入ればいいね。」と言うと、父は「ばかっ、そんなことをしたら死んでしまう!」と大声で怒鳴ったので、和江は黙り込んでしまった。そのうち火も近づいてきたので、和江と父はリュック一つだけを持って大阪府庁の方へ逃げ始めた。リュックの中には、おひつに入れたおにぎり・梅干が入っていただけで、そのほかの身の回りのものを持ち出す余裕はなかった。

 和江の家からひとつ北の大手通はまだ火の手は上っていなかった。2人は谷町筋を渡り三和銀行を横に見ながら、知事公舎の前を通って大阪府庁の建物にたどりついた。府庁は避難してきた人で一杯で、1階は身動きがとれないほどだったので、和江と父は5階くらいまで上っていった。そこも人が多くて横になる余裕など無く、みんな立ったまま夜の明けるのを待っていた。

 別々に逃げた母や妹のことも気がかりだったが、探すすべもなく無事でいてくれることを祈ることしか出来なかった。あとでわかったことだが、3人もあちこち逃げ回って府庁で夜を明かしたようだった。

 翌朝、和江と父は糸屋町の家に一旦戻った。帰る途中に風呂屋があったが湯船の中は空だった。火事を消すために警防団が湯船の水を全部使ったらしかった。角の三和銀行は残っていたが、大手通は焼け跡になっていて、わずかな家しかなかった。和江の自宅も全焼しており、庭の石灯籠と石で出来た表札だけが残っていた。西隣りの家で母と芳恵や美代子と再会し、焼夷弾の直撃にも遭わずに無事だったことを喜んだ。

 和江と父母の3人は焼け残ったわずかな品を整理して、とりあえず玉造にある親戚の家を訪ねて行くことにした。妹2人は隣りの家で一晩預かってもらえることになった。

 市電はまだ走っていなかったので谷町筋を南へ歩いていったが、このあたりも空襲でほとんど家は焼かれ、繊維問屋の大きな金庫だけがあちこちに残っていた。今日も時折B29爆撃機が上空に現れ、3人はそのたびに焼け残った金庫の陰に隠れた。

 谷町六丁目の交差点を曲がって東雲町を通ると、このあたりは爆撃がひどかったらしく、あちこちの防火用水のそばで多くの人が死んでいた。焼夷弾の攻撃で焼け出され、みんな水を求めて防火用水に集まり、そこで力尽きて死んでいったようだった。玉造の親戚の家に着いたのは夕方で、その日は一晩泊めてもらって、翌日に滋賀県の叔父の家を訪ねることにした。





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