戦 地 か ら の 復 員 (2)

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 昭和22年の春、一枝の弟の友治が復員して尼崎の家へひょっこりやって来た。父の慶治が出迎えると、
「何やお父さんか。お母さんは?」
と言った。慶治は
(母親の方が頼りになるのかな? 父親って損やなあ。)
と、少し寂しい思いをしたようだ。

 友治は軍隊へ入ったときの甲種合格の立派な体格は見る影もなく、栄養失調のため痩せ細った体で、夜盲症(とり目)を患っていた。見えにくい目で夕方の道をよくたどりついたものだと親戚の者も驚いていた。たまたま尼崎へ来ていた義兄の重雄がすぐに銭湯へ連れて行った。

 尼崎で一晩泊めてもらった友治は翌日一人で、母や妹たちの待つ滋賀県の叔父の家へ出かけて行った。骨と皮だけのようになった友治が、頼りない足取りで叔父の家に入ってきたとき、久子はひと目で兄だとわかったが、あまりにも変わり果てた姿に声も出なかった。

 元気に出征していった兄が、こんな姿で帰ってくるとは、戦争とは酷いものだと久子は胸が締め付けられる思いだった。

 玄関に出てきた叔父が
「友ちゃんか? 可哀想にこんなに痩せてしまって。それでもよう帰ってきてくれた。よう生きて帰ってきてくれたなあ。」
と、友治の手をとって男泣きに泣いていたのが、久子の脳裏にいつまでも残っている。

 久子は母がいないのに気づき、あわてて畑の方へ呼びに行った。戻ってきたマツも息子の変わり果てた姿を見て、何も言わずに泣くばかりだった。それは悲しみの涙というよりも、息子が生きて帰ってきたことを喜ぶ涙だと、久子は子供心にも感じた。

 後で久子が父から聞いた話では、眼鏡をかけていた友治は出征する時に予備の上等な眼鏡を二つも持って行ったのだが、帰ってきた時には眼鏡さえかけていなかった。聞けば全部上官に取り上げられたらしかった。

 復員してから数日後、友治は栄養失調からの夜盲症と皮膚病のため、八日市病院へ入院してしばらく静養することになった。友治は22歳、久子が国民学校の4年生、文恵が女学校の2年へ上った年だった。

 また義兄の重雄より1年も復員が遅れたのは、友治の行った南方の戦地が戦況の悪い状態で、終戦後も食料の補給がなく、兵隊はその辺の雑草や虫などで食べられそうなものは何でも食料にして、飢えと戦っていたようだった。日本への引揚船もなかなか来なかったので、復員が大幅に遅れてしまった。

 友治の入院はそれほど長くはなかった。やはり若かったので体力の回復も早かったのだろう。退院してしばらく静養するうちに、もとの元気な姿に戻っていった。

 初夏のある日、友治は妹たちを連れて野洲川へ毛布を洗いに行った。叔父の家から歩いて30分足らずのところだった。川の浅瀬で毛布を踏み洗いして、小石の多い川原に拡げて乾くのを待っていた。その間に友治は久しぶりの水泳を楽しんだ。水泳の得意だった兄がゆっくりと泳いでいるのを見て、久子たちは兄の回復を自分のことのように喜んだ。

 友治・文恵・久子が両親と一緒に、大阪市内の家を借りて住み始めたのは、それからさらに1年後の昭和23年夏のことだった。
                                   ―― 完 ――



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