8月7日に福山へ

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 終戦も近づいた昭和20年8月7日、和江は朝早く滋賀県甲賀郡水口町の叔父の家を出て広島県福山市へ向かった。関西方面の空襲が増えてきたため、位牌を夫の実家へ預けに行くためだった。叔父の家から一里の道を歩き、三雲から国鉄草津線で京都駅へ出て、西へ行く列車に乗り換えた。

 和江はもちろん前日の6日に広島に原爆が落とされたことは知らなかったし、福山まで列車も順調に走り、空襲警報で停められることもなかった。福山駅から近い夫の実家を訪ね、夫の母親に位牌とわずかなお小遣いを手渡した。この義母は先妻が33歳で亡くなった後、夫を育ててくれた後妻だった。あとから知ったことだが、義母はその位牌と和江があげたお小遣いを、布でお腹に巻いて守っていたそうだった。

 せっかく来たのだから一晩泊まっていきなさいと義母はしきりに勧めたが、苦労して手に入れた旅行切符がその日7日限りの通用だったので、名残惜しいけれども夜行列車で滋賀県へ帰ることにした。それが和江の運命を「生きる」方へ導いたのだった。また広島ではなく手前の福山だったことが、和江を原爆の放射能から遠ざけたことで二重の幸運だった。

 京都へ向かう夜行列車は途中で空襲にも遭わずに未明の京都駅に着いた。しかしその頃には空襲警報が発令されて、京都から先の列車はすべて運転されず、多くの人々が京都駅で夜明けを待っていた。

 日が昇って空襲警報が解除され、京都駅から各方面への列車が走り出し、和江は午後には水口町の叔父の家に帰ってきた。そしてその8日の夜、あの福山大空襲が行われたのである。義母はその福山大空襲の焼夷弾で亡くなり、お腹に巻いた位牌は半分が焼けてしまっていた。

 これもあとになってわかったことだが、8月1日にアメリカ軍が、大空襲を予定している都市の名前を書いたビラを各地へまいたそうだ。その中に福山をはじめ舞鶴・大津・西宮など12の地名が入っていた。しかし当局がすばやく回収し、一般の人々の目にはほとんど触れなかったという。

 福山市は学童疎開で関西から来ている子供たちも多く、空襲の標的にはならないだろうと位牌を預けに行ったのだがそれが裏目に出てしまった。焼け焦げた位牌は終戦後長い間、和江の家の仏壇に安置されていた。





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