水口町への疎開

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 同じ大阪の空の下、天満橋と玉造で親子が別れて一夜を過ごした翌15日の朝、父母と和江は玉造の親戚の家にいとまを告げ、東区糸屋町の自宅の焼け跡へ帰って来た。

 父母は西隣りの山田さん宅へ子供2人を預かってもらったお礼に伺い、二人が山田さんの娘京子ちゃんと一緒に天満橋の親戚の家に泊めてもらったことを知った。

 和江の家の西側に路地があり、そこで類焼を食い止められたのか、西の方の松屋町筋にかけては焼け残った家が多かった。その中に3階建ての印刷屋があり、父が交渉してそこの3階に間借りさせてもらえることになった。

 大阪はまだこれからも空襲があることを予想して、芳恵と美代子の二人は叔父の家に疎開させ、父母と和江の3人がそこで住むことにし、とりあえず和江が2人を滋賀県甲賀郡水口町の叔父の家まで連れて行くことになった。

 父母は焼け跡の片付けにかかり、和江は隣りの山田さん宅へ行き、2人を預かってもらっている親戚の住所を聞いて、天満橋へ二人を迎えに行った。

 山田京子ちゃんは国民学校の2年生で、1年生の美代子とは仲良しだった。5年生の芳恵ともいっしょに遊ぶこともあり、芳恵が集団疎開で滋賀県へ行っていたとき、面会日のおみやげに着せ替え人形のセットを和江が大丸百貨店へ買いに行ったことがあった。

 その時は美代子もついて行き、京子ちゃんのも含めて3人分の人形セットを和江は買った。高価なものではなかったが、かわいい顔の人形がついていて、美代子のお気に入りだった。そんな心遣いや隣組の助け合いもあったので、焼け出された美代子たちの面倒を親切にみてくれたようだ。

 天満橋の家に着くと和江は何度も礼を言って、芳恵と美代子を引き取った。2人とも「避難袋」に身の回りの品や乾パンなどわずかな食料を入れて持っていたので、そのまま天満橋から一部動いていた市電に乗って大阪駅へ行った。

 大阪駅から電車で京都駅まで行き、草津線の列車に乗り換えた。蒸気機関車が牽く列車は満員でスピードも遅く、草津線の「三雲」駅に着いた時には、夜も遅く最終のバスが出た後だった。

 駅から叔父の家までは1里もあり、子供を連れての夜道は不安で途方にくれていると、3人の様子を見ていた駅長さんが事情を聞いてくださり、車庫へ入る回送のバスに乗せてもらえることになった。

 田舎の人の厚い人情に接した和江はホッとすると同時に胸が熱くなった。バスを降りた3人は運転手さんに口々に「ありがとう」と言って、暗い夜道を叔父の家に向かった。

 叔父は以前は天満橋の近くで和菓子屋をやっていたが、大阪への空襲を予想して早くから水口町の実家へ疎開していた。和江たちにも「早く疎開して来い!」と言ってくれていたが、なかなか腰が上らずにとうとう空襲を受けてしまった。

 和江は叔父に会ったら「ぐずぐずしているから空襲に遭うんだ!」と叱られることを覚悟していたが、何も言わずに温かく迎えてくれたので嬉しかった。

 父から連絡がいっていたようで、叔父はぜんざいを用意して待ってくれていた。「寒かったやろ。はやく上ってぜんざいをおあがり。」と居間へ3人を招き入れた。空腹だった3人はぜんざいの甘さでやっと人心地がついた。

 翌3月16日、和江は近くの水口西国民学校へ芳恵と美代子を連れて行き、転校の手続きをしたあと、役場にも寄って色々な手続きを済ませた。大阪とは違って景色のいいのどかなところだった。

 数日後、和江は妹2人を残して父母の待つ大阪へ帰っていった。芳恵と美代子は親と離れた生活に不安を感じながら、「早く戦争が終わって、家族みんな一緒に大阪で暮らしたい。」という気持ちで、姉の後ろ姿を見送っていた。





町かどの戦争体験
目 次 へ

ぎんがてつどう別館
トップページへ

ご感想・体験談などを
お寄せ下さい。


inserted by FC2 system