疎開先での生活(1)

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 和江が大阪へ帰ってしまうと、芳恵と美代子の疎開先での生活が始まった。滋賀県でも時々空襲警報が発令されることがあったが、それほど緊迫感はなかった。

 大阪のようにB29爆撃機の爆音が聞こえることもなく、校舎や家の中に入って、警報の解除を待つだけだったが、大阪大空襲を経験した2人にとって、空襲警報のサイレンは、あの日の怖い思い出が甦る引き金だった。

 転校した学校へ通いだした頃、美代子はクラスの男の子数人に「やーい、焼け出されこーじき、焼け出されこーじき!」と、はやし立てられたことが何度かあった。直接の暴力を受けたことはなかったが、言葉でいじめられることは多かった。その度に美代子は、「私は乞食なんかじゃないもん。」と心に強く思って泣くことはなかったし、いじめられたことを誰にも言わなかった。

 大阪大空襲の日、逃げる途中で「おかあちゃ〜ん、おかあちゃ〜ん!」と親にはぐれた女の子が泣き叫ぶ声を耳にしたことを思うと、家族が怪我もなく無事に逃げられた幸せをかみしめて、少々のいじめには耐えられた。そのうち男の子たちもあきてしまって、はやし立てることもしなくなった。

 衣類などは配給制で、時々学校でも割り当てがあり、2年生になって間もない頃、紺のもんぺと長袖の上着のセットが2組、美代子のクラスに配給があった。担任の女の先生が、「美代子ちゃんは着のみ着のままで大阪からこちらへ来られたので、今度のは2組とも譲ってあげたいと思うんだけど。」と教室の生徒を見回して言った。

 先生の言葉に誰一人不平を言う者もなく、みんな黙って頷いていた。このように担任の先生が何かと気を遣ってくれ、クラスの女の子たちもみんな親切にしてくれるので、それが美代子にとっては大きな心の支えとなった。

 和江は大阪へ帰ってからも、時々水口町へやって来た。芳恵や美代子の通信簿を持ってきてくれたり、福井の親戚の家へ疎開させていた衣類を取ってきてくれたりした。あるとき子供たちのために叔父が餅をついてくれることになったが、年配の叔父がふらつくのを見て和江が交代して杵を持った。けれども女の力では重い杵がうまく使えず、杵をまっすぐに振り下ろすことが出来なかった。

 和江が大阪へ帰ってからは、芳恵と美代子の姉妹はいつも一緒に行動し、芳恵が友達の家へ遊びに行く時にも、小さい美代子がくっついて行った。夕方になって家に帰るときは、寂しさを紛らすために大声で歌いながら田んぼのあぜ道を歩いたこともあった。





町かどの戦争体験
目 次 へ

ぎんがてつどう別館
トップページへ

ご感想・体験談などを
お寄せ下さい。


inserted by FC2 system