疎開先での生活(2)

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 一方、父母と和江は大阪で焼け残った印刷屋の3階に間借りして、父と和江は北浜の既製服問屋へ勤めていた。焼け出されて生活用品もない状態だったが、食器などは父が勤めていた会社の社長が懇意にしていた料理屋で分けてもらった。

 近くの焼け跡を耕して野菜や芋を植え、やせた芋のつるを主食にしたりして飢えをしのいでいた。父と和江は仕事が休みの日にはよく水口町へ芳恵や美代子に会いに行き、一晩泊めてもらって翌朝5時頃に叔父の家を出て、草津線の三雲駅まで1里(約4km)の道を歩き、大阪の勤務先まで4時間ほどかかって出勤していた。

 あるとき、父は焼け残ったミシンを大阪から叔父の家に運んだ。三雲の駅を降りて田舎道をミシンを抱えながら歩いていると、近くの農家の人が気の毒に思ってリヤカーを貸してくださった。叔父の家にミシンを置いてすぐにリヤカーを返しに行ったが、戦争中は見ず知らずの人にも親切にする助け合いの精神が、現在よりもずっと自然に発揮されていたようだった。

 焼け残ったミシンは、父が足や台板をどこかで調達してきて、叔父の家の板の間に据え付けた。紳士服の仕立て職人だった父が愛用していたシンガーミシンはこうして甦った。休日に水口町へ来た父は、このミシンで近所の仕立ての注文を受けて、少しずつ生活費を蓄えていった。

 大阪大空襲の後も何度か空襲警報は発令され、母が避難するときに国民学校の地下室の扉で胸を打ち、体が弱ってしまったので父や和江と一緒に叔父の家へ来ることはなかったが、6月の大阪大空襲で間借りしていた印刷屋も焼けてしまい、母も一緒に叔父の家で住むことになった。

 和江には6月の大空襲の記憶はなく、たぶん父と一緒に水口町の叔父の家に来ていた時に、大阪が空襲に遭ったようだ。ただ、その時に母がどこにいたのかは今では知る由もないが、無事でいてくれたのは不幸中の幸いだった。

 大阪で住む家をなくした家族は、わずかな期間だったが水口町の叔父の家で、5人が揃って世話になっていた。父と和江は朝5時頃に家を出て、4時間以上かかって大阪・北浜の既製服問屋へ通っていた。しばらくその生活が続いたが、いつまでも体がもつはずはなく、尼崎の親戚を頼って父と和江の2人が間借りさせてもらうことにした。母は病弱のためもあって叔父の家に留まり、美代子たち3人の生活が始まった。

 母は近所の家の農作業を手伝い、美代子は学校が終わってから隣りや向かいの家の赤ちゃんを預かって、子守りをすることが仕事になった。病気がちの母に代わって洗濯をすることもあった。井戸水で洗濯し、すすぎは家の裏の小川でしていた。きれいに乾いた洗濯物の清々しさが気持ちよかった。

 芳恵は女学校へ通うようになっていたので、いつも帰りが遅く、母の具合が悪いときは洗濯などの家事は美代子の役目だったが、そのぶん叔父と接する時間が長く、叔父は美代子をとてもかわいがってくれた。

 そのうち母は病気がちになった。空襲で逃げるときに胸を打撲したことや、田舎での気遣いの多い生活で心身ともに疲れが溜まっていたようで、肋間神経痛や胃酸過多症で病院通いを繰り返し、時には往診をお願いしたこともあった。

 体調のいい時はまた近所の手伝いをしに出かけたが、無理をしていたことは小さい美代子にもわかった。母の体を蝕んだのが戦争だと思うと、とても腹立たしく悲しかった。

 父と和江は尼崎で住み始めてからも、時々は水口町へやってきた。その都度、父は運んできたミシンで仕立ての仕事をしていった。大阪で家族が一緒に住むために、少しでもお金を蓄えておこうと必死だったと、後になって美代子は父から聞いた。

 美代子はそんな父の気持ちには気づかず、早く大阪へ帰ってお友達と会いたいとか、学校はどうなったのかな?などと毎日考えていた。そんな美代子の願いが通じたのか、終戦の日は間もなくやってきたが、その前に和江の義母が空襲で亡くなるという不幸が待ち構えていた。





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