終 戦 の 日 に

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 昭和20年8月15日、正午にラジオで天皇陛下の玉音放送があったが、どれほどの人がこの放送を聴けたのだろうか? 雑音の多い途切れ途切れの放送を聴いてもわからなかった人もいるし、子供たちはさっぱりわけがわからずに、原っぱでチャンバラごっこをしていたかもしれない。

 和江の記憶もあいまいで、雑音の多い放送を聴いたような気もするという程度だった。けれども翌日には、警防団の人が知らせたり近所の人の話から、戦争が終わったことを多くの人が知るようになったようだ。

 子供たちはもう空襲警報で逃げ回ることもなく、安心して学校で友達と勉強したり遊んだり出来ると思っていただろうが、親たちはこれからの生活のことを考えると、喜んでばかりもいられないというのが本当の心境だった。

 芳恵と美代子の通う水口西国民学校では15日の午後に、集団疎開で学校に寄宿している学童たちを、地元学童の有志で慰問する催しがあり、芳恵と美代子も近所の友達と一緒に学校へ出かけていった。

 学校の2階にある家庭科教室が広い畳敷きになっており、疎開学童たちはそこで寝起きしていたようだ。芳恵は前年の秋から冬にかけて集団疎開の経験があったが、今度は疎開学童を迎える立場になっていた。

 芳恵たちは校門を入って家庭科教室のある校舎へと歩いていったが、渡り廊下のところで先生2人が小声で話し合っておられるのが目に付いた。疎開学童を引率してきた先生のようだった。不安そうな顔で話しておられたので、美代子は子供心にも何かあったのではないかと直感した。

 慰問の会ではお遊戯をしたり、疎開学童と一緒に歌を歌ったりしたようだが、美代子はさきほどの先生たちの不安そうな様子が気になって、どんなことをしたのか詳しく覚えていなかった。

 美代子が終戦を知ったのは翌日のことだったが、きのう疎開学童の先生が小声で話していたのは、そのことだったのかとあらためて確信した。

 戦争が終わったからといって、翌日から暮らしが全く変わってしまうこともなく、今までと同じように貧しい日々が続いた。何ヶ月かが過ぎた頃から、村にも復員してくる兵隊さんの姿が見えるようになり、その反面で戦死公報が届く家もあって、悲喜こもごもの生活が繰り返された。

 芳恵たち3人が間借りする叔父の家でも、まだ戦地から帰って来ない義兄の俊雄と、兄の重治の写真を棚に飾って、毎日「陰膳(かげぜん)」を据えて、2人の無事を祈っていた。

 和江の夫の俊雄が復員してきたのは、終戦から8ヶ月後の昭和21年4月。美代子たちの兄の重治が復員したのはそれからさらに1年近く後のことだった。





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