戦地からの復員(1)

(地名はほとんど当時の表記にしておりますが、人名はすべて仮名です。)


 昭和21年4月1日、和江の夫の俊雄が復員してきた。召集解除証明書(「資料編2」参照)によれば、神奈川県の浦賀港に上陸したようだった。それから色々な手続きを済ませて証明書類を発行してもらい、列車を乗り継いで大阪駅に着いたのは3日か4日になったようだ。

 大阪駅からは市電で東区糸屋町の自宅へ戻ったと思うが、もちろん家は大阪大空襲で焼けてしまって残っていない。空襲から1年以上経っているので、焼け跡にも新しい家が建っていたかもしれないが、俊雄の家族が住んでいるわけではなかった。

 家族がもうそこにはいないことを知った俊雄は、手がかりを探して近所を歩き、大手通にあった町会の連絡所へ行ってみた。そこで滋賀県甲賀郡水口町の叔父の住所を聞き、また大阪駅から東海道線の列車で戻っていった。それが4月5日だったようで、従軍証明書(「資料編2」参照)の欄外には「復員者世話係大阪駅出張所」と「4月5日」のゴム印が押され、手書きで「大阪−水口」と記されている。

 その日の夜遅く、叔父の家では農協組合に住み込みで管理しておられる女の人が、電話が入っていることを知らせに来られて、母が組合の事務所へとんで行った。そして帰ってくるなり芳恵と美代子に「俊雄義兄ちゃんが帰って来はったそうや!」と叫んだ。おそらく貴生川の駅からの電話だったのだろう。

 急いで布団を片付けた3人は、家を飛び出して暗い夜道をしっかり手をつないで、駅の方に早足で歩いて行った。隣り町にさしかかった頃、ほのかな街灯の明かりで向こうの方からやって来る人影が見えた。

 美代子は「兄ちゃんや!」と直感して、30メートルほどに近づいて顔がはっきり見えた時、母と芳恵の手を振りほどいて「兄ちゃん!」と駆け寄って行った。そのことは60年以上経った今でもはっきりと覚えている。

 翌日、連絡を受けた和江が尼崎から駆けつけ、2年ぶりに夫婦が再会して涙の対面となった。俊雄は中国での前線生活の間に「マラリア三日熱」に罹っていたことが、従軍証明書(「資料編2」参照)に記載されているが、復員当時は健康状態もそれほど悪くはなかった。ただその後、一度だけ同じ病気が再発したが、それ以後は昭和54年に胃癌で他界するまで、病気らしい病気はしなかった。

 俊雄と和江はしばらく叔父の家に滞在したが、6畳一間に5人が寝るので、布団を対角線上に敷き、頭を交互に逆向きに寝たことが美代子の記憶の中にあった。

 俊雄と一緒に叔父の家に世話になっている時、和江は配給の布で美代子のスカートを縫ってあげた。手間のかかるスカートで、仕立ての経験がある俊雄も手伝ってミシンを踏んでいた。出来上がったスカートを履いた美代子はとても喜び、その時に撮った写真は今でも残っている。

 夏の初め頃には和江は復員した俊雄と一緒に尼崎の親戚の家へ戻った。9月頃までそこにいて、戦友の紹介で西成区柳通り(天下茶屋)の長屋の2階を借り、夫婦2人だけの生活が始まった。尼崎の親戚に間借りしていた父も時々は和江たちの家へ泊まって、そこから仕事場へ俊雄と一緒に出勤して行った。





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